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今日も他人事

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8.魔王、名士を配下に揃え




「俺は後世の意見など気にしてはおらん。我が破壊と創造の歴史、全て克明に記すがよい」
(郡雄伝第七章 董卓おじいさまと蔡ヨウの会話より)

軍事力の不足を補い、呂布という片腕を得た董卓おじいさま。

さらに幼い帝と陳留王さえも握っており、朝廷で大きな発言力を得ていました。

これらを背景として、董卓おじいさまはさっそく自身の独裁政権の確立を目指します。

まず、自身の政権を固めるべく、多くの名士を抜擢、高職に取り立てます。

当時、清流派知識人である名士層は、宦官らによって権力から排斥されていましたが、民衆からの信頼は厚く、人気もありました。

これらの名士を抱えていない事は、政治を行うに当たって大きな不安材料になり兼ねませんでした。

同時に「党鈷の禁」によって官職を剥奪されていた陳藩ら党人の名誉、爵位を復活させ、その子孫を抜擢しました。

これによって宦官の悪辣さを協調し、宦官に苦しめられた者達を味方に引き込もうとしていたようです。

劉備の師である盧植も宦官撲滅に尽力した事もあって取り立てられています。



後に曹操に仕え手腕を振った文官・荀イクの叔父である荀爽は、三公の司空(公共事業の担当。当時でいえば総理大臣級の地位だったそうです。なお、それ以前に司空の座は劉弘という人物が任じられていましたが、「雨が長く降らず民衆が苦しんでいる」という理由で失脚、董卓おじいさま自身が取って代わっていたそうです)に取り立てられるなど、この時期の董卓おじいさまは自分の味方を作るために様々な手を凝らしています。

一方、董卓おじいさま配下の武将らは全て顕職には就けていません。

娘婿の一人、牛輔でさえ中郎将などの高級将校に取り立てられるだけでした。

また、董卓おじいさまが重用した事で知られるのが、大学者・蔡ヨウ(後の魏の女流詩人・蔡文姫の父親)でした。

この方は、霊帝の代より高名を馳せた名士で、彼が六経を石に刻んで建てた「キ平石経」には、それを写すために毎日千台以上の車が集まり、道路を塞いでしまったという逸話も残っています。

霊帝の時代には天子の顧問・議郎として仕えていましたが、国体に干渉する女子、宦官が災いの元であると上奏したために宦官・王甫の讒言で十二年近く追放させられていました。

彼に目を着けた董卓おじいさまは、召致しようとしますが、蔡ヨウは董卓おじいさまに仕える事を嫌がり、仮病を持って応じようとしません。

これを虚言だと見破った董卓おじいさまは、病気であろうと従わなければ一族郎党、処刑すると言い放ちます。

蔡ヨウは諦め、董卓おじいさまの下に出仕しますが、董卓おじいさま自身は彼を最高顧問とし、その意見を度々聞き入れ、最期まで重用し続けました。

その後、董卓おじいさまは三公の大尉(軍事担当)となり、罪人処刑、天子近衛の権利を得ます。

こうして、次々と権力を手中に収めていく董卓おじいさまは、遂にある一つの計画を実行し始めるのでした……


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